恋愛小説が意外にも好評だった為、第2弾を書こうと思ったが、何の創作意欲もわかずパソコンを開くこともなかったので久しぶりの投稿となります。
今回は最近巷でよく耳にする、「ギフテッド」という言葉があるが、この言葉を通して思うところを書きたいと思う。
ギフテッドとは諸説あるが、大体の意味は以下である。
ギフテッド・タレンテッドの生徒とは、同じ年齢・経験・環境を持つ子供と比較して、著しく高いレベルを達成する、あるいはその可能性をうかがわせる子供。知的能力、独創性や芸術の分野において高い実行能力を示す、並外れたリーダーシップ能力を持つ、あるいは特定の学術分野で秀でている 引用文
テレビなどの報道でもあるように、米国でギフテッドと呼ばれる子供達の別クラスもあるようだ。
それは、ギフテッドの子供達は他の子供と違い、回りに理解がないと折角の才能を刈ってしまうので、別クラスにして、ギフテッドに合わせた教育に特化したらしい。
私は当然、天才ではないし、暗記力は全然だめだ。しかし子供の頃から、頭の回転が速く、勘がとても鋭いと言われた、また変なところで記憶力がいい。
小学生の頃は、よく先生にお前は頭の回転が速いな~と言われてそれがどういうことなのか深く考えなかった。
先生がみんなに考えさせるために、話している最中に答えが閃いて答えをよく言ってしまう。
先生が困ったような顔をした場面を今でも思い出す。
親子面談の時も、娘さんはとても頭の回転が速いですねと、母親に言っているのを聞いても、とても褒められているようには聞こえず、変わり者の子供ですねと言われたのかと心配になり、思わず母親の顔を覗き込んだ。
私の知り合いに一度その人の誕生日を聞くと二度と忘れないという知り合いがいる。
自分の頭の中には芸能人など合わせて3000人の人の誕生日が入っているという。
名前は思い出せないが、その人の顔を見ると、誕生日が浮かびあがるというのだから、ある意味天才だと思うし、まさにギフテッドだ。
私は、親の誕生日もろくに言えない、特に人の誕生日に興味がないので全く頭に入らない体質なので羨ましい限りだ。
その知人曰く、他人も自分と同じように、誕生日ファイルが脳にあるのだと思っていたという。
私のような人間がいることに最初驚いたと言っていた、と同時に自分は人と違うのだと思ったそうだ。
子供の頃は頭の回転の速さとかで、具体的な悩みはなかった。
ただ漠然と何かが違うという壁を感じていたのは確かな記憶だ。
それが、だんだんと生きづらさ、孤独感を感じるようになりはじめたのは中学生の頃からだ。
中学の頃は回りからよくあんたは生意気だとか、言葉が速くて何を言ってるのかよくわかんないとか言われた。
先生を言い負かして、その先生から酷く怒られたこともある。
友達がお金を盗んだことを当ててしまい、友達とは疎遠になってしまった。
大人になってからは、部下から木口さんは、私が今言おうとしていること、いつも先に言いますよねって言われて、はっとして ごめんなさいと謝ったことがある。
この人は今、次にこういうことを言おうとしているというのが分かって、相手が口に出すのを待っている時間が勿体ないと思っていたことを言い当てられた気がして反省した。
会議中に、発言すると、君は頭の回転が速いからね、私はついていけないと上司から嫌味のように言われて酷く落ち込んだこともあった。
私が提案したことが、何年後にそのような形になった。
その時は誰も私の言っていることなど無視していた。
それをまぢかでみていた友人は佳代の発言や提案は速すぎたのよと笑いながら言われた。
その答えが正しくても、言う時期が早すぎるということがあるのだと、ということを知った、20代の時だ。
私は閃いた結論をすぐにいうことが癖だ、そこまでの答えに至る時間がほとんどないからだ。
しかし答えを出すまでの、悩みとかプロセスが大事でそれを口に出すことも大事な作業であること、説明することの大事さを仕事上で知らされるばかりだ。今では自分が瞬時に理解することを他人に押し付けてはならないと思うようになった。
また私は映画でも、ドラマでも、小説でも9割方、犯人をあててしまう。
それも映画がはじまってすぐわかってしまうので、映画がはじまって、一緒に観に行った人にこの人犯人だよと言ってしまい、もう二度と私とは映画は観に行かないと言われてしまった。
ある時から、この頭の回転の速さや勘の鋭さを人にみせることは、私の幸せにならないと感じる。
私は何にもわかりませんという顔をする方法がいいのだと思うようになった。
だからドラマでも、小説でも、映画でも飛びぬけた天才が出るものを見るのが好きだ。
日本ドラマなら、「相棒」の右京さん、アメリカドラマなら「クリミナルマインド」のスペンサーリード、最近なら「ミステリと言う勿れ」の久能整君だ。
これらの天才を見ていると自分が平凡に見えるのでとても安心感が生まれる。
これらの主役はいずれも変わり者として描かれている。おそらく彼らこそがギフテッドなのだ。
この人達の天才ぶりは時として笑われたり、憎まれたり、恨まれたりもする。
ギフテッドという天才達も一歩間違えば、変わり者としてあつかわれてしまう、アメリカではそれを子供の頃からそうならないようにとクラスを分けている。
このブログでは何度も普通とは何かを問うてきた。
天才と言われる人達も平凡の人達から壁を作られることがある現実。
ギフテッド達がけっしてその人並はずれた才能を喜ろこべない社会になって欲しくないし、思いっきり個々の才能を伸ばせる日本になって欲しいと願って書きました。
お・わ・り
木口さんの言う通りだと思います。
日本の教育はずば抜けた才能をさらに伸ばすのではなく、できていないところを指摘してそこを頑張ろうという教育。だから世界的に活躍するギフテッドな天才達がうまれにくい。
海外ではギフテッドな才能をさらに伸ばして行く事によってその人に自信がうまれる。
「○○なら私に任せて!」
これがアイデンティティ教育。
もっともっと自己肯定感の高い自信に満ち溢れた人が多い国になって欲しいですね。
風の旅人スナフキンさん、コメント有難うございます。日本の多数に合わせる教育、変わって欲しいですね!