更年期障害を乗り越えた私⑤

更年期障害を抱えての新たな任地は北の大地 北海道

前任地を逃げ出すように、北海道に降り立った私は、正直ヘロヘロだった。

そんな私の癒しになったのが、大地の土のエネルギーとか、牛の可愛いさだ。

私が行くあらゆるところに牛、馬などがいるのが北海道。

動物はどちらかというと苦手であった私だが、悲しみ一杯で胸が押しつぶされそうになったとき、牛と目があってその可愛さに何度救われたことか・・・

こんな時だからこそ大自然から与えられるエネルギーは侮れないと知らされた。

また旭川にある治療院はいつも患者さんが沢山いる有名治療院だ、東京からも患者さんがくるほど。

そこのロックな感じの先生の治療がこれまた素晴らしいこともあり、私は北海道での仕事を何とかこなすことができた。もちろん、そこでも産婦人科を探して、HRTの治療も続けた。

そこの医師は男性だったので、これは長くする治療ではないよと苦言を言われた・・ふっう~

そんなある日、新規プロジェクトがはじまる為、関東に呼び戻される。

そこではマネージャー業になった、失敗させてはならないという使命感により、がむしゃらに働く。

チームの人間関係の調整だとか長い移動距離の運転だとか無理を重ねていった。

HRTの治療を続けていれば下手なことはないであろうという過信から休みも取らず働く、夜はくたくたで何もやる気が起きない状態で令和という時代に入ったのだ。

このままでは以前のような状態になってしまうと、「休む勇気」の大切さを実感し、1か月間の仕事を全てキャンセルしたのだ。

それが容易ではないことは私自身が一番よく知っていること。

今回つくづく知らされたのは、いくらHRT治療をしていても、過労やストレスにより症状は悪化してしまう。

若い時は何とか持ちこたえることができても、一度疲弊した精神と体には当然、休養が必要であること。

人生の折り返し地点に立ち、私は多くの時間をもらった、この時間を同じ苦しみをもった女性達と共感し少しでも向上できたらと願ってこのブログを立ち上げた。

更年期障害は女性に限ったことではないので、男性方もお気をつけてくださいませ。

さてさて、次回はお約束通り、サイコパスについて記述していきたい。おわり

更年期障害を乗り越えた私④

HRTの治療が開始され、3回目の通院の時に黄体ホルモンを処方され、一度とまった生理を 起こすこととなるっと言っても、これは医師いわく生理のようなものということだ。

私はエセ生理と名づけているのだが、つまり子宮内膜をきれいにしないと子宮内膜が増殖 して子宮体がんの一因となるので、生理様によって子宮のお掃除がなされるのだ。

女性の皆さんなら経験があるだろうが、月1度の生理は本当に女性にとっては苦痛の何者 でもない、しかもあれだけの大量の血液が身体から流れ出るのだから大変な血液、水分の入替えだと思う。

更年期になりよけいに生理というのは子宮の掃除としか私には思えないのだった。

黄体ホルモンを処方され朝、晩のみはじめて、10日目にエセ生理がはじまった。

治療がはじまったことで身体は少し改善の兆しがみえてはきたものの、私を取り巻く環境の悪化は依然変わらなかった。

この更年期障害もそうだが、環境、ストレスが大きな影響をもたらすのは間違いない。

母の死後、今にして思えばもう1ヶ月は休暇が必要だったのだ、癌患者の看病は精神的に強い私でもとてもダメージとなった、そして母を失った悲しみ、喪失感を抱えながらの仕事復帰はそれはそれは苦しいものである。

一旦仕事がはじまれば、私の個人的感情や体調などはお構いなしだから、ストレスはたまる一方なのだ。

そして当時はまだそんな言葉も認識できていなかったのだが、私の身近な人にサイコパスがいたのであった。※サイコパスについてはこのシリーズのあと詳しく明記したい。

ここにいたら私は生きてはいけないと決意をし、上司にここから異動させてくださいと願い出た。

更年期障害の病状を訴えた私に、男性上司はホルモンって怖いですね・・とぼそっと言ったその言葉に、私自身妙に納得してしまったのだ。

更年期障害をかかえて、新たな任地へと出発するのである・・・・つづく

HRTの治療のメリット、デメリットはネットなどに沢山でているので参照願いたい。これはあくまでも私の更年期障害の体験記である。

更年期障害を乗り越えた私③

今回はもう少し女性ホルモンが減少するとどのようなことが私に起きるのかを述べておきたい。

私は子供の頃からマンガが大好きで、いい大人になっても月刊誌のマンガを何冊も読んでいた。

特に小学生の頃から毎週月曜日に必ず読んでいたのが週刊少年ジャンプである。

そんなマンガ好きの私がどうしたことが、ジャンプの立ち読みがおっくうになってしまった。そしてついには一冊も読めなくなった。

そのことは自分の中でも青天の霹靂だった。

そして排卵がとまったということは、分かりやすく言えば子供ができなくなるということなのだ。

若い頃はある種、男性と付き合う時に一番恐れていたことは妊娠することだった。

当時、仕事を失いたくないからである。

それがもう自分には起きないという現実を目の当たりにした時に、何か足りない女というレッテルをはられたような気がした。

当然回りの男達にはそんなことがわかるはずもないのだか・・・

そんな変な感情をもっている私だから目の前にいる男性と上手くゆくはずもない。

その男性がよく言う”めんどくさいという言葉に酷く傷つき、ひきずるのだ、昔ならそんなこと言われたらパンチしていただろうに・・そして、私は生まれて初めて振られるという悲しい経験をすることになる。

母が亡くなって悲しいこともあり涙が毎日とまらない。

腫れぼったい私の目は、ますます腫れあがり、とても自分の顔を鏡で見るのが苦痛となって真面目に整形手術を考えていた。

この顔が変わればまた女として自信がつくのかもと、とんでもない思考回路になっていった。

当時よく男性に私、女として魅力的に見える?などと、今ならとても口に出せない、とても鬱陶しい質問を恥ずかしげもなく聞いていたのだ(ああ~思い出すのも恥ずかしい~)

今にして思えば女性ホルモンの減少による病状だったのだと知らされる。

HRT治療をはじめると、少し精神も落ち着いてきたのか、毎月の煩わしい生理もなくなりちょっと開き直りを感じはじめた頃、女医は「女性ホルモンの数値も上がってきたから、今日から黄体ホルモンを処方して生理をおこしますよ」と淡々と告げられる。

え~うそ~ ナプキン全部後輩にあげちゃったよ~また買わねば・・・などとどうでもいいことを考えていた私だったのだ・・・生理が止まったのになぜ生理を起こす???つづく

更年期障害を乗り越えた私②

産婦人科医の医師から告げられた病名が更年期障害だった。

まずは女性ホルモンエストロゲンを処方してもらった、お腹に貼るパッチ式のもの、そして気分の落ち込みなどは漢方薬を処方してもらった。

薬局で私の名前を呼ばれた時、それが自分に起きている現実ととても思えず返事ができなかった。
あっ私呼ばれていると気が付いて顔を上げた時、はじめて同じ歳くらいの女性がこれまた同じ薬を処方してもらっていることに気が付いたのだ、ああ、私だけではないのか~と何となく安心したのを覚えている。

自宅に戻り、私はネットに出ている更年期障害の事例を片っ端から読んだもう読む記事が無くなった時、はじめて自分の病状の原因が女性ホルモンの減少によって起きているということが分かり、そしてその治療に入れたことがとてもラッキーであったことを知ったのだ。

若しこれが分からずにそのままにしていたら、産婦人科以外の病院に行っていたらどうなっていたのかと思うと少し寒気がした。

この治療をHRTと呼ぶ、欧米諸国で普及率は40% 日本はわずか1.5%。
ある男性の医師はこのHRTの治療をあまり推奨していなかったその理由として不自然なことをしては体に余計負担をかけるということだった。

でも実際、病状が出て苦しんで、それに治療法があるなら受けない理由はないとHRT治療を開始する。・・・つづく

更年期障害を乗り越えた私①

母が74歳の時に、末期がんになり、仕事を休んで看病に実家に帰る、半年の看病へて、母が亡くなり仕事に復帰した。

この頃より体調の異変を感じはじめる私は当時、大阪でセミナーや講座をする仕事をしていた。

冷え性の私が、講座の最中に滝のような汗が出て、スーツが汗でぐっしょりとなるほど、それだけではないなぜか汗と一緒に涙が止まらないのである、回りの人はお母さんを亡くしたばかりだからと同情の目で私を見ていただろう。

なぜだか分からないが夜一人になると、大阪湾に飛び込みたくなる衝動に駆られるそして何より辛かったのは三度の飯より寝ることが大好きな私が朝まで眠れなくなってしまったのだ。

そんな最悪の朝をむかえて講座に立たなければならない日の辛いこと辛いこと。
私何か悪い病気にかかっているのではないかと心配していた時にふっと思い出したのが、あれ生理がきてない・・・・?

そこですぐに産婦人科にかけつけた。待合室で待っていた時HRTについてというパンフを見ていて驚いた、自分の症状が詳しく書かれていた。

そこで婦人科の先生に私これだと思いますとパンフを差し出したのだ。
そして血液検査の結果、排卵がとまってます、間違いなく更年期障害ですねという女医の言葉にえ~え~え~と何回言っただろうか?

まじか~ 40代後半の誕生日をむかえたばかりだった、ここから私の更年期障害との戦いがはじまるのだ。つづく